私たちは学校で、なにかあるごとに「みんなで話し合って決めましょう」といわれてきました。もちろんこれは日本だけのことではなく、近代の成立以降、欧米では「自由な市民による討論」こそが民主的な社会の基盤とされ、アメリカでは議論に勝つための「ディベート」というテクニックを学生たちが一生懸命学んでいます。日本の学校の「みんなで話し合う」も、敗戦によってアメリカの「民主教育」が移植されたものです。
「三人寄れば文殊の知恵」は、一人の限られた知識で問題を解決しようとするよりも、さまざまな知識をもつひとたちが集まって協力したほうがよい結果を生むということわざで、たしかにそのとおりにちがいありません。
しばらく前に『「みんなの意見」は案外正しい』という本が話題になりましたが、そこでは「素人による多数決は専門家に勝る」と論じられました。早くも19世紀に、ダーウィンのいとこであるフランシス・ゴールトンが、牛の品評会で行なわれた体重当てクイズの投票用紙を集め、素人の参加者の投票の平均が専門家よりもずっと正確に牛の体重を予測することを示しています。素人判断は極端に重かったり軽かったりするものの、多数の投票で間違いが相殺されて平均が正解に近似していくのです。
だったら、「みんなの話し合い」によって世の中はどんどんよくなっていくのでしょうか。
インターネットの誕生で誰もがバラ色の未来を夢見ていた頃ならいざ知らず、いまではこういう楽観派は少数でしょう。話し合うほどに意見が対立し、やがては憎悪の応酬になっていく有様をSNSで日々目にしているのですから。
いったいどちらが正しいのか? 最近では認知心理学が、巧妙な実験によってこの問いに答えようとしています。
実験では、視覚の俊敏性を必要とする課題で、能力の高い被験者と低い被験者をさまざまな条件で組み合わせました。すると、不思議な現象が判明したのです。
自分と相手がどの程度の能力をもっているかがわかれば、当然のことながら、能力の低い者が高い者の判断に従うことで正解率は上がります。ところがこの条件で参加者に話し合いをさせると、正解率が逆に大きく下がってしまうのです。
その理由を研究者は「平均効果」で説明しています。話し合いでは、ごく自然に、参加者のすべてが「平均的な能力」をもっていることを前提にします。そうなると、能力の低い者は実際より有能に、能力の高い者は実際より無能に評価され(自分でもそう思い)、いつのまにかとんでもない判断に至ってしまうのです(会社の会議などで思い当たるひとがたくさんいそうです)。
これを読んで、「だからリベラルな教育はダメなんだよ」と思ったひと(保守派)もいるでしょう。しかし問題はさらにやっかいです。
研究者は文化的な偏りをなくすため、この実験をデンマーク(西欧)、中国(東アジア)、イラン(中近東)で行ないました。それぞれの国の「リベラル度」はかなりちがうでしょうが、驚いたことに、どこでもまったく同じ「平均効果」が生じたのです。
「その場を丸く収めるために無能な者にひきずられる」というのは、どうやら人類に共通の性向のようです。